子どもの不登校、引きこもりで悩んでいるお母様、保護者様。
プロフィール記事にあるように、私自身その経験をしていますし、母との関係でずっと悩んできました。
私の体験談を含め、日ごろ思っていることを書いてみようと思います。
母に振り向いてほしかった幼いころの私
私は小さいころ、とても良い子でした。小さいころの写真を見ると、それなりに幸せに育ってきたのだと思います。しかし、弟が生まれてから私の幸せは一変します。
母と祖母、弟と私は、小さいころ、一緒に寝ていました。母は、私の隣で寝ていますが、弟の方しか顔を向けませんでした。私は、母の背中を見ながら、
「なぜ、母は、私の方を向いてくれないのだろう。もしかしたら、私はこの人の子どもではないのかもしれない。」
「きっといつか、私の本当のお母さんが迎えに来てくれるんだ。」と本気で思っていました。
しかし、迎えは来ず、それからは、母に認められるように、精一杯がんばりました。
娘に厳しかった母の生い立ち・背景
母は、7人兄弟の長女に生まれ、母のお母さんは、ご主人様を戦争で亡くし、シングルマザー。そして母は、兄弟で一人だけ、親戚の家に預けられました。
母が小学校のときから自分の兄弟と一緒に住むようになったようですが、周囲からは、本当の兄弟ではないと思われていたそうです。
母は、親戚に預けられ、親戚の家で認められるために、一生懸命がんばったのだと思います。
そして、私の父と結婚したのは、昭和の中ごろ。嫁いだ家で生きていき、認められるためには、男の子を生む必要があったのです。
そして、生まれたのは、私(女の子)。それでも7年間生まれなかったので、祝福される存在だったのですが、そこに、弟が生まれます。私と弟の愛され方は、だいぶ違っていました。
恐らく、男の子を生んだということが、母が嫁いできた家でアイデンティティーを保てる唯一のことになったのだと思います。
↑以上のことは、私が大人になって気づいたことですが、その当時は、母に振り向いて欲しい一心で何事も頑張っていたのだと思います。
私が小さいころ、頑張ってきたことと、母が、親戚の家で頑張ってきたことと重なりますね。
母への愛憎渦巻く学生時代
私は、ずっとよい子で、小学校から高校2年生までずっと学級委員でした。自分の思いよりも母の期待を優先させていました。それなりに成績が良かった私は、母にいつも一番を獲ることを強いられていました。
人生で一番なんてずっと続くものではなく、いつしか、私は母に対して愛憎の念を抱きます。そして、その反抗心は、内側に向かいます。
反抗心が外側に向かう方と内側に向かう方がいますが、根っからの良い子の私は、内側に向かっていきました。良い子の私はそのようなときでも勉強していました。そして、ストレスの先は食べ物に向かい、体重は80キロを超えていました。
そして、専門機関に相談しに行ったのですが、いつも母が隣にいました。私がお母さんのことで苦しんでいることを誰にも分かってもらえませんでした。
お母様、保護者様、ご自分の人生を歩んでください
私の母のような人生を送った方も、昭和の時代は少なからずおられたような気がします。今、アラフィフになった私は、その母の呪縛から逃れ、精神的にやっと自由になれたような気がします。
今、子育てでお悩みのお母様、保護者様、
もしかしたら原因はご自分にあるのかもしれません。恐らく、このHPにたどりついた方々は、ご自分の人生を考え直す時期にきているのだと思います。
もし、何かございましたら、お問い合わせから、ご相談ください。